Education
2014 - Musashino Art University, Tokyo (sculpture)
2016 Universität der Künste Berlin (exchange)
2018 - Tokyo University of the Arts, graduate school (new media)
Exhibitions & Performance
2014 - 渋谷UPLINK 自主制作アニメーション上映
2015 - あれに続く何か @gallary SEPTIMA
2015 - KAKEHASHI Project 外務省クリエイター米国派遣事業
2017 - 若手振付家とダンサー育成プロジェクト@城崎国際アートセンター
2017 - student art marathon @blanClass
2018 - performance @新国立美術館,五美術大学展
2018 - North Carolina Art University department of Dance (intensive workshop scholarship student)
「見る見られるという関係性について」
私のパフォーマンス作品のいくつかにおいて、共通する2つの要素がある。1つ目は、見る見られるという関係性である。 普段私たちは社会に生きる中で常に見る見られるという流動的な関係の中に置かれている。私の作品の多くはパフォー マーとビューワーがフラットな状態で始まり、そして始めのフラットな状態に戻り終わる。また作品の中でビューワーの動 きとパフォーマンスの動きがリンクし、観客はパフォーマンスに同化してしまうような構造をとることが多い。これらによってよりパフォーマーとビューワーの線引きは曖昧になり、演じる役割が流動的になる。両者が同じポージングになるのも、 見ている自分と見られている相手が極めて近い存在であり、その交換可能性について示唆するためである。 この見る人と見られる人の関係性について、まず考えなくてはならないのが「人間が人間を見る」ということについてで ある。これはなぜパフォーマンスを表現手段とするのかという問いにも関わる。表現手段の選択の問題など、好きだから という回答で十分以上であるが、そういったことを私はあえて考えたい。 ある何か言い表せないものがあったとし、それを的確に表現する手段としてパフォーマンスを用いる際、音楽や美術など の他の表現手段と比較しメディアとして吟味すべきであり、且つその時パフォーマンスがそれを表現する為の最良の手段 であるのが望ましい。なぜ布を張ったキャンバスに色を置くのでなく、ものを形作り構成・配置し提示するのでもなく、保 存されないパフォーマンスで人間に生身の人間を見せるという手段を取るのかという問いが必ず生じる。 生身の人間を見る、つまり他人を見るということは世界で物質的に最も自分に近いものを見るということだ。自分を客観 的に見ることが不可能な限り、自分というものを見るには自分に似たようなものを見て自分を感じ取るほかない。自分の外側の世界において他人より自分に近いものはない。他人を見るということは自分を見ていることと同義でもある。これらを考えるために、私たちの見る見られるという関係性が暫し作品に含まれる。
「リアリティについて」
私が表現をすることや表現手段としてのパフォーマンスという形態をとっていることの根底にはリアリティについての思考が関係している。一般論めいているが、現代においてたくさんのものが疑似化していっている。体験もその1つだ。五感に働きかけるテクノロジーで遠く離れた別の場所に実際に旅行したような体験や、恋愛やセックスまでバーチャルで体 験できるようになっていっている。全てに関して言えるが、映像や写真などの記録・伝達の媒体が発達した現代で、それら を見てさらに生でみたいと思うかが重要になる。しかしここでいう生で見る、また生とは一体なんなのか。これはリアリティについての思考の重要な部分である。 言語や数値などの記号や画像や映像が伝達する過程でこぼれ落ちる些細なものたちが存在する。それがリアリティを 感じさせるのではないだろうか。そして私はそれらが生きている実感をもたらすのではないかと考えている。パフォーマンスという形態をとっているのも、これらの可能性を模索するためである。簡単に言えば、保存されないからこそリアルだからだ。
「身体の限界を意識させることについて」
そしてこのリアリティについての思考から生じた、身体の限界を意識させるというテーマがある。それがいくつかのパフォーマンス作品に共通する2つめの軸である。身体の限界を意識させる状況とはどうしようもない状況と近くあることが多 い。このどうしようもない状況は、詩的な状況になり得る可能性を持っている。 そのアプローチの1つとして視野の限界がある。視野の限界付近で物事が行なわれるとき、それは見る人への振付にな る。duskでは、視界についてわかりやすく言及するために空間の四隅にパフォーマーが立っている。その状況でそれぞ れ別の規則に従った2つのムーブメントの受け渡しが同時に移動しながら進行する。2つは基本的に対角線上位置し続 け、時間が進むにつれスピードが上がり、同時発生しているムーブメント数が増えより複雑化していく。これらは、人間の 視界が180度前後であることから考えても、パフォーマンスの全てを認識することが不可能だと明らかにしている。 またもう1つの共通した構造、単調(start)→ 複雑 →単調(end)という流れ(例えばlook and look, looksでは単調なリ ズムの繰り返しに、単調なリズムの繰り返しが重なり複雑になっていく)を持ち、パフォーマンスは終盤にかけて複雑さを まし認識の限度を超えることを目指し作られている。これらも限界を感じさせるための別のアプローチである。 身体の限界の提示は、見る人に入れ物、箱としての身体のアウトランを意識させ、自分という存在がどこに起因している のかという問いに誘導する。これはリアリティについての思考の共有を促すものであり、生きているという実感につなが るものだと考えている。